僕の見たビートルズはTVの中 斉藤和義
こんばんは。
久しぶりの更新となります。
脳の不調に陥りまして、なかなかブログを開けずにいました。
もともと高が知れてる脳ですが、どうしたものか、言葉が出てこないことってありますよね。
そんな中で、昨日今日と集中的に運動をしてみたら、なんだか頭もすっきりしました。
ランニングやウォーキングといった規則運動は精神のリズムを整え、心を正回転させてくれる気がします。
いつもは音楽を聴きながら運動するのですが、試験的に何も聴かずテレビも見ずに1時間半歩いてみました。
外界からの情報を遮断しても落ち着いていられる集中力を付けたいのです。
スマホを持つようになってから、集中力が2、3分しかもたないんですよね。本当に。
退屈してると思ったのか、ジムの方が途中でテレビの付け方を教えに来てくれたのですが、「いえ、修行中なんで見ないんです。」と言ったら爆笑されました。私は本気です。
さて、みなさんは読書はされますか?
私は小説を結構読んでいました。
最近はHOW TO本ばかり読んでいます。その問題の解決法が載っているので、いまはHOW TO本がおトクで好きです。
本を読むことは損得ではありませんが、私は自分で言うのも何ですが感受性が強いので、気分を下げないために小説やルポルタージュはあまり読まなくなりました。
ハッピーな調子のそれらもあるのでしょうが、そういう類のものはつまらないものが多いですよね。
それと、気分の切り替えが下手なんです。暗いルポルタージュを読むと目の前に死体が転がっているような映像が頭をよぎって張り付いたままになります。
よし、切り替えるぞ!と思っても全然ダメだし、違うことをやり始めてもなお考えてしまうんですね。
切り替えの仕方はいまHOW TO本で読んでいます。
切り替えるのがいいのか、開放したままにするのがいいのか、そこも本を読んでみるつもりです。
人に聞いても分からないですからね。
思春期の頃、角田光代さんや町田康さんの小説をよく読んでいました。
角田光代さんの『空中庭園』には人間関係は表面を整えても中はドロっとしていて個人の視線が鋭くお互いを観察していること、人は愚かであることなどを感じました。
町田康さんの作品は読むと言うか、挑むという気持ちでした。
文体が独特で山道を歩いているような険しい小説だけど、慣れるとずっと親しめるクセになる小説だと思いました。
町田さんの話す言葉も印象的で、私は「パンクとは疑うことです。」と「小説家の仕事は言葉の定義を創ることです。」という言葉に感銘を受けました。
それまで、精神的なパンクとはどういうことか説明した人を知らなかったし、そういえばパンクロッカーってそういう感じだなぁと妙に腑に落ちました。
これは思春期の私に多大な影響を及ぼしました。
「カッコイイ」の基準が、パンクであるか否かになり、疑うことを覚えました。
常に真理はどこにあるかが気になりました。
疑うということは逆回転することなので、周るのにエネルギーが要ります。
でも今はそれから10年以上経ち、その思考回路の染み付きが辛くなってきました。
エネルギーが足りないんです。
もう肯定することをやりたい。
良く言えば、斉藤和義さんが言うところの「ずっとひねくれてるばっかじゃ能がない」です。
ちゃんとコミュニティの中で形式も実質も良くして生きていきたいと今日なんとなく思いました。
ということで、今日は斉藤和義さんの「僕の見たビートルズはTVの中」です。
「ずっとひねくれてるばっかじゃ能がない」という歌詞が出てきます。名曲です。
作詞作曲編曲:斉藤和義